第2回 仏は無職だ、このやろう 『あたらしい無職』刊行記念トークイベント 丹野未雪×栗原康「無職を語る」

8/11(金)東京・田原町のReadin’Writin’にて、『あたらしい無職』(タバブックス)刊行記念イベント「無職を語る」が開催されました。『あたらしい無職』は著者の丹野未雪さんがフリーランスや正社員として過ごした3年間の記録で、会社とはなにか、仕事とはなにかを考えさせられるエッセイです。今回の対談相手は、おなじくタバブックスより『はたらかないで、たらふく食べたい』を出版されている政治学者の栗原康さん。旧知の仲であり、栗原さんによると「貧乏、借金、タバブックス」が共通点であるおふたり。世の中の窮屈さから自由に生きていくためのヒントが得られるトークの中身を、一部抜粋して全5回でレポートします。(第1回はこちら

 

栗原 ぼくも働かなくていいんだってことをさんざん言ってきたんですが、「あたらしい無職」ということばを聞いて、ようやく無職であることが前提であり、無職であることをベースにしてものを考え始める時代がきているという、その状況そのものがあたらしいと感じました。

 

2000年代前半を考えてみると、フリーターであるということには「世の中とやりあうぞ」みたいな意味合いがあったんですよね。正社員にはならずにフリーの仕事でも食ってくみたいな。フリーの仕事にポジティブなものを見出そうとしているという意味で、まだちょっと仕事にこだわりがあることばなんだと思うんです。

 

もう一方で、「失業者に開き直ろう」みたいなことばをよくつかったりするんですけど、失業は失業で、仕事からパージされた(切り離された)っていう意味で、仕事と対にあることばですよね。

 

そういう意味で、無職というのはすごくラジカルなことばなんじゃないかなと思います。仕事とはまったく関係のない世界からものを考え始める。もともとフリーターも失業者も負のレッテルを貼られていたと思うんですけれども、世の中で無職っていう最大の負のレッテルであるものに徹底的に開き直っていく本としても読めるのかなって思っています。

 

丹野 ありがとうございます。先日栗原さんが朝日新聞の書評で取り上げてくださったのですが、まさか一遍上人と大杉栄に挟まれることになるとは(笑)。

 

栗原 一遍上人、大杉栄、丹野未雪!

 

丹野 身に余る光栄です(笑)。いまおっしゃっていたことを念頭に、書評を書いてくださったのかなと思って。

 

栗原 そうですね。若手の論者が「いま自分たちが世の中を変えるために動く」というのをテーマに書く連載なのですが、その一発目として依頼をもらって。で、3冊紹介してくれと言われ、最初に思いついたのがこの本だったんです。

 

一遍上人は鎌倉時代で、大杉栄は大正時代の人なんですけど、ふたりがやろうとしていたようなことって、現代で丹野さんがやろうとしていることに近いと思っています。

 

いま正社員が当たり前で、そうなれない人間は無用だというように言われたりするわけですよね。で、大正時代のころにも同じような感覚はあったし、一遍上人のころもたとえば農民としてちゃんと米つくらないとだめだ、っていう圧力があって。年貢をつくるために体をつくれってどうなの?とか思ったりしますけど(笑)。

 

一遍上人は死ぬまで踊ってそういう身体感覚をぶっ壊せ、とか、大杉栄は、会社でさんざんこき使われて結果お前無用とクビにされるくらいだったら、会社を燃やしてでもこんなんぶっ壊してやれ、みたいなことを言ったりして。大杉栄の周りの20代の子とかは本当に会社を燃やすんですよ(笑)。

 

そういう考え方って、いまの労働ありきの価値観をすべてぶち壊して、空っぽになる、ある意味で無職になりきるっていうことですよね。だから本当に、『あたらしい無職』と同じことを言っているんだ、っていう。

 

 

丹野 書評のなかに、すごいパワーワードがありましたよね。「仏は無職だ、このやろう」。成仏できる!って思いました(笑)。

 

栗原 仏が働いているわけないですからね(笑)。

 

丹野 そう思うと、人ってそもそも仕事をお仕着せられるべきなのか、というようなことにも考えが及んで、すごくおもしろかったんですよね。人は本来無職だ、というその辺りのお話をもう少し伺いたいです。

 

栗原 一遍上人を読んでておもしろいのが、「人は本来無一文である」っていうことばがあって。要するに無職だっていうことなんですけど、生まれたときはだれも仕事なんてしていないですからね。職業ではかれるものではないっていうか。

 

無職で生まれ、無職で死んでいく

 

栗原 テレビでニュースをみていても、どこどこの田舎で、老人が殺されたとかいう事件があったりすると、「85歳、無職の男性が殺害されました」なんて言われますが、85歳は無職で当たり前なんですよね(笑)。わざわざ無職というくくりをつける意味って何なんだろうって。それだったら、「15歳、中学生、無職」というべきですしね。だから、「みんな無職」というところから考えてみてもいいんじゃないかなってことを考えました。

 

丹野 ニュースなんかで報道されるときの括弧のなかの肩書って会社員とか自営業とかだったりするわけじゃないですか。雇用されているか否か、雇用している側ならどういう役職か、それが社会に参加しているということなんだよっていう、暗黙のメッセージのような、そういう意味合いで括弧のなかがつけられているようにも思えますよね。

 

栗原 ぼくは最近、「社会自体がクソなんだ」と言い始めちゃってるんですけど、会社員でなければ入れないような社会だったらいらないですよね。

 

丹野 何年か前に、未来がどうなっていくかをテーマにしたドラマ仕立ての番組(2015年放送 NHKスペシャル ネクストワールド 私たちの未来)があったんですが、主人公が働いているのは大手広告代理店のような社屋で、会社だけでなく生活圏のセキュリティもそうした大企業的なものが拡張されたような世界だったんですね。そういう大企業に勤めている前提で未来が描かれているのをみたときに、「あ、中小企業の経営者や勤めてる人とか、個人自営の人は、その未来のなかに入らないんだ」と感じられて。で、「そっち側にわたしはいかない」と思ったんですよね。イイっすっていう。

 

栗原 この本のなかの第二部が、丹野さんが取材で中小企業のおっちゃんたちに話を聞きに行ったりする話で、そのひとつひとつがおもしろいのですが、そういう人たちが入らない社会っておかしいですよね。

 

丹野 へんですよね。取材先の方たちの背後にあるものは本当にもうドラマだし、ひとくくりにはできないストーリーがひとりひとりにあるんです。途中から人生そのものを聞いてる気持ちになります。

 

人ってプロセスを生きているから、サクセスストーリーだけじゃなくて暗い話も出てくるんですけど、でもそれをどうにか乗り越えたりやり過ごしてここにいるんだなって、励まされました。人は明るい話だけに励まされるわけではない。

 

栗原 明るい話って、実は大して励みにならない。

 

丹野 中小企業の方に話を聞きに行く仕事は、一年くらいの本当に短い期間だったのですが、得るものが大きかったです。普段接することのないような方たちで、業種も年代もいろいろだし、地域もばらばらで。すごくいい経験をさせてもらったなと思っています。

 

栗原 そういう話が載っている第二部、おすすめですね。

 

次回につづきます)

 

【プロフィール】

丹野 未雪(たんの・みゆき)

1975年宮城県生まれ。編集者、ライター。ほとんど非正規雇用で出版業界を転々と渡り歩く。おもに文芸、音楽、社会の分野で、雑誌や書籍の編集、執筆、構成にたずさわる。趣味は音楽家のツアーについていくこと。双子座。

 

栗原 康(くりはら・やすし)

1979年埼玉県生まれ。東北芸術工科大学非常勤講師。専門はアナキズム研究。著書に『大杉栄伝 永遠のアナキズム』『はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言』『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』『死してなお踊れ 一遍上人伝』など。